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琉球列島に最初の人々はいつ来たのか

琉球通史 002

沖縄本島の洞窟からは、子どもの足の骨が見つかっています。石垣島の洞窟にも、多くの人骨が残っていました。どちらも、数万年前に島で生きていた人々の痕跡です。

そのころも、琉球列島(りゅうきゅうれっとう)の島々の間には深い海がありました。人々はいつ、どのように海を越えてきたのでしょうか。骨や道具に残る手がかりから、島々に人間が現れた時代をたどります。

目次

3万年以上前、琉球列島には人がいた

那覇市の山下町第一洞穴(やましたちょうだいいちどうけつ)遺跡で見つかった子どもの骨は、周囲の地層に含まれる炭の年代などから、3万年以上前のものと考えられています。人々がまだ土器を使っていなかった、旧石器時代(きゅうせっきじだい)のことです。

こうした古い骨が残った背景には、石灰岩があります。酸性の土では骨が溶けやすいのに対し、石灰岩の洞窟や岩の割れ目では、酸の働きが弱められ、骨が残りやすくなります。島を形づくった岩石が、遠い時代の人々を知る手がかりも残したのです。

旧石器時代の人骨が残された場所を調べる発掘調査のイメージ。実際の遺跡の復元図ではありません。

人の痕跡は、沖縄本島だけに残っているわけではありません。奄美の島々では石器が、宮古島や石垣島では人骨が見つかっています。各地の遺跡の年代を合わせると、約3万5千〜3万年前には、列島の広い範囲に人々が現れていたと考えられます。

ただし、最も古い痕跡の年代が、そのまま最初の上陸の年代になるわけではありません。今残っている証拠より前にも、人々が渡っていた可能性があります。

人々はどのように海を越えたのか

当時は今より海面が低く、陸地も広がっていました。それでも、沖縄本島や宮古・八重山へたどり着くには、海を渡る必要がありました。渡来の道筋としては、北の九州側からと、南の台湾側からが考えられています。

南の道筋を考えるとき、大きな障害となるのが黒潮(くろしお)です。台湾から与那国島(よなぐにじま)へ向かう海には、北へ速く流れる黒潮があります。流れに押される分を考えなければ、目指す島から外れてしまいます。

丸木舟で海を越える人々のイメージ。実際の航海の様子を復元したものではありません。

この海を当時の技術で渡れるかを確かめるため、2019年、国立科学博物館などのチームが実験航海を行いました。使ったのは、石の斧で木の幹をくりぬいた丸木舟(まるきぶね)です。5人が乗り、台湾から与那国島まで、200キロメートル以上を約2日かけて渡りました。

さらに2025年には、約3万年前の海流をコンピューターで再現した研究が発表されました。当時の黒潮は今より速かったと推定されましたが、出発する場所やこぐ方向を適切に選べば、丸木舟で渡れるという結果が得られました。舟の性能やこぐ技術に加え、海の流れを知って進路を選ぶことも重要だったと考えられます。

これらの実験や研究は、数万年前の技術でも海を越えられたことを示しています。ただし、当時の人々が実際にどのような舟を使い、どの経路を通ったのかを、そのまま証明するものではありません。

骨や道具から見える、島での暮らし

島々に残った骨は、生きていた人の姿を調べる資料にもなります。沖縄本島南部の八重瀬町(やえせちょう)で見つかった港川人(みなとがわじん)は、約2万年前の人々です。頭や手足の骨がよく残っているため、生前の体格を復元したり、ほかの地域や時代の人骨と比べたりすることができます。

一方、沖縄本島の旧石器時代の遺跡では、石の道具があまり見つからず、何を使って暮らしていたのかは、長くよく分かっていませんでした。その理解を進めたのが、南城市(なんじょうし)のサキタリ洞(どう)遺跡です。約2万3千年前の地層から、巻き貝の殻を加工した釣り針が見つかりました。人々は、貝を材料にして食べ物を得る道具をつくっていたのです。

この洞窟には、川にすむモクズガニのはさみや、カワニナという巻き貝の殻も大量に残っていました。カニの大きさや貝殻の分析から、これらは主に秋に捕られたものと考えられています。海だけでなく川にも目を向け、季節に応じて食べ物を得ていた様子が見えてきます。

洞窟の周囲で貝を加工し食料を集める人々のイメージ。発掘調査で確認された具体的な場面の再現ではありません。

石垣島の白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)遺跡では、死者を葬った跡が見つかりました。約2万7千年前の人骨では、頭や手足の骨が、生きていたときの位置関係を保っていました。遺体を土に埋めず洞窟の中に置き、この場所を墓地として利用していたと考えられています。

その人々は、後の時代につながったのか

沖縄本島ではかつて、港川人より後の人々を、土器が現れる時代まで続けてたどれる資料が乏しいことが課題でした。しかし、サキタリ洞から約1万4千年前の人骨や石器、約9千年前の土器が見つかり、その間を埋める手がかりが増えました。資料が少なかったことは、人がいなかったことと同じではありません。

古い人骨と後の時代の土器を時間の流れに沿って表した概念イラスト。集団の連続性を証明する図ではありません。

一方、異なる時代の遺跡が同じ島にあっても、そこに暮らした人々が、世代を重ねて住み続けた集団だったとは限りません。人のつながりを探るためには、人骨の特徴や、親から子へ受け継がれるDNAも手がかりになります。

港川人の一人のDNAを調べた研究では、現代の東アジアの人々にもつながる古い系統に位置づけられました。ただし、調べられたのは母方のつながりを示すDNAです。一人の母方の系統だけで、港川人が現在の沖縄の人々の直接の祖先だったと判断することはできません。島に人々がいたことを確かめるのと、その人々の子孫を後の時代までたどるのとでは、必要な証拠が違うのです。


主な参考資料

  • 小田静夫(2003)「山下町第1洞穴出土の旧石器について」『南島考古』22、1–19頁。(ac.jpn.org)
  • Kaifu, Y., Kuo, T.-H., Kubota, Y. & Jan, S.(2020)“Palaeolithic voyage for invisible islands beyond the horizon.” Scientific Reports, 10, 19785. (nature.com)
  • 山崎真治「サキタリ洞遺跡」日本旧石器学会。(palaeolithic.jp)
  • 東京大学(2024)「3万年前の日本列島への大航海を当時の材料と道具で徹底再現」。(u-tokyo.ac.jp)
  • 東京大学総合研究博物館(2025)「3万年前の黒潮は今よりも速かったらしい それでも丸木舟は琉球の海を渡ることができた」研究発表。(um.u-tokyo.ac.jp)
  • 山崎真治(2016)「博物館特別展『港川人の時代とその後-琉球弧をめぐる人類史の起源と展開』にむけて(3)」沖縄県立博物館・美術館。(okimu.jp)
  • 石垣市教育委員会文化財課「国指定史跡 白保竿根田原洞穴遺跡」パンフレット。(city.ishigaki.okinawa.jp)
  • 沖縄県立博物館・美術館(2018)『サキタリ洞遺跡発掘調査報告書』。国立国会図書館サーチに収録された報告書抄録を参照。(ndlsearch.ndl.go.jp)
  • Mizuno, F. et al.(2021)“Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences.” Scientific Reports, 11, 12018. (nature.com)

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